ここで待ってる

自分の隣を走れる人間はいない。ナイスが初めて孤独を知ったのはまだ歳を両手で数えられる頃の話だ。何もかもが出来て当たり前、そんな風に周囲の世界が構成されていたので疑問すら抱く余地はなかった。ファクルタース学園という閉鎖的なサークルで生活していたからと言えばそれまでだが、学園の理念は少なくとも未だ自分のアイデンティティを僅かずつでも社会から歪ませている。
 話を戻そう。自身を苛む孤独感についてだ。己の持った音速を走る力はどうにも抜きんでて異質であるらしい。音と共に走る。言葉通りに他人とは決して共有不可能な時間軸に自分は進んでしまった。また、そもそも過酷とされる学園において望まれただけ応えてしまう自分がいつの間にか逸材として良し悪しの線引きにおける対象になったのも孤立の原因である。総合偏差値91という生徒にとっては名誉であろう数字が勝手なレッテルとして自分を押しつぶす。羨望、嫉妬、それらを一手に引き受けるには当時の己は幼すぎた。すっかり浮いた存在となった事に一度だけ耐えかねてわざと手を抜いた日があった。見え透いた落ち度は逆に注目を浴びてしまい、大半のクラスメイトはここぞとばかりに自分を誹謗中傷の的にした。ナイスという存在を間接的に自己評価として提出する教師や研究者からは酷い懲罰を受ける次第となる。こんな事になるならばいつものように振る舞えば良かったとあまり幅のない感情を揺らして話は終わるはずだった。しかしそこに、ひとつだけある誤算が生まれる。己の手抜かりを他の誰よりも怒り倒した人間がいた。それがアートだ。
 懲罰を受けた次の日に教室を訪れると、ずかずかと大股で自分の座る席の前まで歩いて来て、脈絡もなくいきなり拳を振りかざした少年に自分は目を見開くほどに驚いた。持ち前の反射神経で咄嗟に避け空振ったげんこつが、懲りずにまた飛ぶ。今度は余裕があったのでわざと相手の腕を引いて実力差を見せつければ、彼は唇を噛んでくしゃりと顔を歪めた。混乱する思考で思わずなに、と口にすれば許せない、と返ってくる。何がそんなに気に障ったのだろうか。ぽかんとする此方の反応に痺れを切らしたように少年は話した。
「君、この前のテストで手を抜いただろ。僕よりずっと成績がいいくせに、全力を出さなかった。本気じゃない人間に負けるなんて、そんなの悔しいし、腹が立つ!」
 見るからに温厚そうな少年がこうまで怒りを露わにしている事もそうだが、ナイスはそれよりも自分にそこまで強い情緒を正面からぶつけてくる人間に会ったことがなかった。故に対処の仕方が分からず、おろおろと戸惑う形になってしまう。今までは誰もがナイスを見ているようでいて、その内面にまでは踏み込まずにいた。だからこそ極端な客観視と厭世観で冷静さを保っていられたのだ。だというのに。突如としてナイスの世界に現れた少年は実に容易くそれらを崩してしまった。
「……そんなに怒るなら、早く追い越してよ」
「喧嘩腰だね、言われなくてもそのつもりさ」
「いや違う、ごめん。その、同年代の子と喋るの、慣れてなくて」
「だけど追い越してほしいのは本当なんでしょ。いいよ、僕も撤回はしないから」
「無理だよ。一緒に走れる人なんて」
「いないさ。だけど走れなくても、君が休憩してる時にも歩いてさえいればいつかは必ず追い抜ける、絶対にね」
 そう啖呵を切ってそっぽを向いてしまった少年と、まさか今日も縁が続く旧知の仲になるとは流石に自分も予測がつかなかった。たまに思い出した際に面白おかしく話を掘り返せば、そんな事もあったかなとくすぐったそうに笑うアートは、きっと自身の影響力を理解していない。ハマトラが受けるのは本気の依頼だけ。どんな時でも完璧を目指す。まさかその方針が彼の言葉によるものだなんて思いもしないのだろう。ましてや売り言葉に買い言葉のような口約束を今でもずっと待っているなどと、いくら自分でも恥ずかしくて言えたものではない。
「どうしたのナイス、顔がにやけてるよ」
「にやけてねーし。ちょっと昔を思い出してただけ!」
 孤独など、とうに忘れてしまった。